ケインズの『一般理論』を読むに当たって、原書が出版された当時、主流派であった古典派の経済学に対して、自らの理論はより一般的であるという意味で、「一般」という言葉を著書名に冠したということを、同級生が教えてくれました。そして、いきなり第1章には、そのことを示す部分があり、当時、ケインズが同書の執筆に込めた思いというものが良く理解でき、強いインパクトを受けました。以下引用文(山形訳)。
この本に『雇用、利子、お金の一般理論』という題をつけたとき、強調したかったのはこの「一般」という前振りです。こういう題目の狙いは、私の議論や結論の特徴を、経済学についての古典派の理論と対比されることです。(中略)古典派理論の公準は特殊なケースだけに当てはまり、一般的な場合には当てはまらない、というのが私の主張です。痛烈な、古典派の経済学に対する批判です。ここまで、ケインズが言い放った背景には、高止まりする当時の失業率に対して、経済学が適切な説明を提示することができなかったことがあります。そして、第2章『古典派経済学の公準』で、雇用の古典理論の2つの公準について記述しています。
いわゆる第1公準は「賃金は、労働の限界生産性に等しい」としており、企業による労働需要を示しています。一方、いわゆる第2公準は「ある量の労働が雇用されたときの賃金の効用は、その量の雇用による限界的な負の効用と等しい」としており、労働者による労働供給を示しています。この2つの公準が成り立つことで、労働市場は均衡した状態にあり、労働者が過不足なく労働の機会が与えられ、失業者のない労働市場が実現しているとしています。そして、この労働市場が均衡するに当たって不可欠な要素に、伸縮的な実質賃金があり、ケインズは、特に第2公準について現実的ではないと批判しており、実質賃金の下方硬直性などを主張、均衡状態にない労働市場の現実を示唆しています。
それでは、この伸縮的な実質賃金は、現実に存在するでしょうか。米国では流動的な雇用制度があるとともに、労働者の地域的な移動もあり、伸縮的な実質賃金が、ある程度労働市場にて実現されているような気がします。最近では、米国における労働者の賃金が、実質的に中国の賃金と変わらないまで低下しており、輸出拠点としての米国が着目されています。米国で製造された日本メーカーの自動車が韓国へと輸出されるまでになっており、この背景には、米国では労働者が毎月10万人単位で増加しており、労働供給が常に増加していることがあります。
一方、日本はどうでしょうか。日本の雇用者所得は、長い期間を経て、400万円後半から400万円前半へと減少しているとされています。もっとも、失業率は米国のように10%を超えることなく、概ね5%前後で推移しており、雇用情勢は安定しているといえます。しかし、非正規雇用の問題を考慮した場合、雇用情勢はむしろ米国よりも深刻であるともいえます。社会保障や企業年金など手厚い保護下にある正規労働者の存在で、思い切ったリストラのできない企業、そして、低い賃金と安定しない雇用契約で不安定な生活を強いられる非正規労働にとって、今の雇用制度はマイナスであるといえます。調整が長引き、デフレから脱することができない日本経済は、上述した新たな均衡点までの調整の時間が長い体質にあるのではないかと思っています。
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